[漫画・アニメ][昔の仕事]押井守インタビュー「“映像”と“コンピュータ”の融合性」

漫画・アニメ&昔の仕事ネタ

昨日、NHK BS2アニメギガ押井守特集のエントリーをしたが、本日夜の放映はパトレイバー編。

押井守監督のWikipediaはこちら→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E4%BA%95%E5%AE%88

以前、雑誌「AVComputer Magazine」(電波新聞社刊)で、押井守インタビューを記事にしたことがあり、ちょうどパトレイバーの話がされていたので、電波新聞社の許可を得て全文再掲載。

←1994年3月にインタビュー実施、テーマは「“映像”と“コンピュータ”の融合性」だが、前年夏に公開された「機動警察パトレイバー2 the Movie」についても語られている。1994年当時、CGはまだ珍しく、アニメーション業界でも「どう活用するか」というのが課題の段階だった。

すでにパトレイバーを観たことのある人も、インタビュー中の押井監督の発言、

(パトレイバーは)作品のテーマの中に“モニタを見ている人間”という基本的な構図を持っている

というところに注目しつつ、今夜再見するべし。「人間とモニタが向かい合っている構図の中に、映像として表現できる別のものが存在する」という構造だ。押井監督の作品は「構図」と「構造」、「日常」と「非日常」、これらの“境界線”の表現が特徴的で、見れば観るほど味がある。

ちなみに、インタビューアー&記事編集は住吉が担当。あこがれの押井守監督へのインタビューなので、エライ緊張したことを思い出した(笑)。

それでは、再掲載記事をお楽しみくださいね↓


AVC Interview

映像作家インタビュー

“映像”と“コンピュータ”の融合性を聞く!

 映像とコンピュータ,この二つの融合はここ数年で飛躍的に進んでいます。デジタル・ビデオ・システムの登場によりパソコンの映像の個人編集が可能となった今,映像の世界はどう変貌していくのでしょうか?

 押井守監督は,最新作の映画『パトレイバー』シリーズで,コンピュータを“物語”“表現方法”双方に含ませ,現代東京を描くという意欲作を作りあげました。さらにアニメーション以外でも,『紅い眼鏡』『ケルベロス』といった実写映画や,『サンサーラ・ナーガ』シリーズなどのファミコン・ゲームをも手掛け,現在もっとも映像とコンピュータに関わっている一人といえるでしょう。

コンピュータは新しい物語の器

-押井監督は,ふだんパソコンをどう使っていますか?

押井守監督(以降押井) はじめはゲームから入りましたね。他にはワープロとして使ってます。このまえPC-9821Asを新しく買って,Windowsも動かしてみたけれど…たまに絵を描いたりする以外は使わないかな。でも,ファイルマネージャは便利ですね。ファイルマネージャのためにWindowsを起動することはある(笑)。

-押井監督は本業は映像作家ですよね。コンピュータ・ゲームを作ってみよう,と思ったきっかけは?

押井 一番最初に考えてたのは,ゲーム,とくにRPG(ロール・プレイング・ゲーム)の世界というのは,物語というのがテレビや映画とちがう切り口で,ちがう扱われかたができるんじゃないか,という気がしてたんですよ。自分自身が,そういうRPGのゲームにハマっているときに,もしかしたらこれが新しい物語の器になるかな,と気がついたんです。しかもそれが,小説とかマンガとか映画ではできないことがやれるんじゃないか。簡単にいえば,“双方向性”といわれるものですけど。それだから,常々やりたいなと思っていて,たまたま企画がとおったんでやらせてもらったんですけど。

-その第1作が『サンサーラ・ナーガ』ですね。いろいろな意味で話題になったと思うんですが,実際に作ってみて感じたことは?

押井 ゲームは奥が探いですね。感じたのは,やっぱリゲームを作ってる側も,ゲームで遊んでる側もね,何がおもしろいのか,何がおもしろくてこれだけゲームを作り,ゲームを買って遊ぶのかということを,まだわかってないんですよね。じゃあ僕はわかってるかといわれたら,たぶんわけのわからないまま,おたがい勘でやってるような気がするんですよ(笑)。ゲームっていうのはなぜ人間をこんなにおもしろがらせるのか,興奮させるのかという部分の問いかけが,現在はきわめて不十分だと思うんです。そうすると基準がないまま,定義もないままで,おたがいまったくちがう単位を扱ってものを作っているわけです。じゃあ,何もできないのかというとそうじゃない。昔からゲームといわれるものは,無限にありますよね。サイコロさえなくても,鉛筆ころがしてでもゲームやりたい人間はやっちゃうわけですよ。そこがゲームの持つ“何か”なんですよね。それぞれゲームの本質というか,ゲームの実体みたいなところとまったく掛け離れたところでゲームが語られ,ゲームが作られ,ゲームが遊ばれているというのが現状ですよね。それで自分が何をできるのかといったら,何もできやしない。あちこちでそういうことをわめき散らすことくらいでね(笑)。わめき散らしたところで,基準がないからそれもほとんど通じない,ということになっちゃうんだけれども…。

-そういう現状で,新作ゲーム『サンサーラ・ナーガ2』を作ったわけですが。

押井 今回は,演出家として機能してみたいな,と思ったんです。いかにおもしろく見せるかという。僕は映画監督である以上にね,やっぱり演出家として自分を考えて仕事しているんです。それがゲームであろうが映画であろうがアニメーションであろうが,いわゆる物語をいかに演出してお客さんにおもしろく見せるということが僕の仕事の基本なんです。だから今回はシステムをいじったり,とんでもないことはやってません。やってないことで,前作より売れるんじゃないかと期待されてるんだけど(笑)。

物語の中でコンピュータを表現するには?

-ご自身でもパソコンを使っている,ということですが,物語の中でコンピュータを登場させるときに注意していることはありますか?

押井 リアルな部分は見せなければいけないけれど,妙にコンピュータというものを神秘化したりとか,あるいはものすごく嫌悪の対象として描いたりとかはやめようと。ひと昔まえまでコンピュータっていうと,だいたい悪の帝国の真ん中にあるとか,もしくはものすごく素晴らしいもので,ヘタすると神様になっちゃうんじゃないかと(笑)。それは両方とも嫌だったんです。そうじゃなくて,コンピュータというものは人間が付き合って新しく生まれた,しかも今までの車であるとか,トンカチであるとか,飛行機というものとは本質がどこかちがう部分を持ってる“何か”なんです。そういう感じを描けたらいいな,と思ってはじめたんですよ。

-それが映画『パトレイバー1』で“コンピュータ・ウィルス”という形で表現されたわけですか?

押井 まず,パトレイバーというハードをパソコンに,それに乗り込む主人公たちをソフトに見立てると,一番ウソや誇張やわけのわからないコンプレックスのない,精巧なコンピュータというものを描けるんじゃないかと思ったんですよね。たまたまその話の主入公が警察官なんで,どうしても毎回事件が起きるわけだから,コンピュータ犯罪というところにいったわけです。コンピュータ・ウィルスっていうのも,散々わけのわからない感じで世の中に無用な恐怖まで与えたものだから,わりと正確にやろうと思ったんですけどね。

CGはあくまでも一つの素材として使う

-映像とコンピュータというと,やはりイメージか強いのはCG(コンピュータ・グラフィックス)ですが。

押井 以前とくらべると,パトレイバーではずいぶんCGを使いましたね。ただ前作では予算が非常に苦しかったんで,IndigoはおろかMacのQuadraも使えないという。結局あれはAmigaでやったんですけど。パソコンで作ったCGを,堂々とスクリーンしかけるという図々しいことをやったんです(笑)。

-最新作の映画『パトレイバー2』では?

押井 今回は逆に,非常に高レベルだったCGを,ビデオで何度もダビングしたリエフェクトかけたりして,いかに汚しまくるかということを一生懸命やったんです。僕にとってCGというのは,そういうことですね。CGそれ自身を演出したりとか,CGで可能なことをスクリーンで見せたりということは考えてないわけで,CGはあくまで扱うべき一素材なんです。生活の中で,CGを見ない日がないくらい,あたりまえのものになっていますよね。それは,キャッシュ・ディスペンサのディスプレイに映しだされる文字,あれだって堂々たるCGなんですよね。テレビ・ニュースのタイトルもみんなCGだし,雑誌の表紙だってCGだし,CGに関わらない一日なんて考えられないですよ。それだけ普通になってるものを,映画の中でことさらCGだ,というほうが変なんじゃないかと。

-つまり,CGであることを目立せなくするわけですか?

押井 素材である以上は,映画の中で一種のリアリティを持たせるために,加工するのはあたりまえなんです。ビデオ映像だったら,ドロップ・アウトまで入れたりとかね(笑)。作り手の側もそういうふうに思って作ったほうが表現の幅が広がるし,別の意味でリアリティを与えることができるはずなんです。それはもう,その部分だけ取り外して見ても,すごいということは全然ないと思うんですよね。スピルバーグの映画『ジュラシックパーク』でCGの恐竜がスムーズに動きまわるのは,本来はジュラシックパークという世界観にリアリティを与えるために必要だからやってるわけであって,そこだけを別に売っちゃってもいいできになると困るわけですよね。やっぱ
りその作品だから,それが必要な範囲で,それ以上でもなくそれ以下でもなくが大事なんです。そこだけ浮いちゃったら,結局失敗なわけだから。

-CGの予算は安くなってきている,と聞きますが?

押井 そうですね。それにしてはまだ,やっぱりお金がかかりすぎる。安くなったとはいわれても,まだまだ高いなと思いますね。でも,現場の感覚からすると全然足りないという…,まぁあたりまえの話ですけど。

-パトレイバー2では,ねらいどおりにCGはそれほど目立ちませんでしたが,どのくらいの量があったのですか?

押井 カット数でいえば,一割ぐらいですね。さらに100パーセントCGというカットが,その中の1割5分から2割ぐらいかな。ほとんど合成してますよ。むしろ合成するのがねらいだったから。さっきもいったけど,加工するということの中には自分の映像といかにマッチングさせるか,合成するか,わかんないように紛れ込ませるとか,そういうことが含まれるんです。

二次映像の可能性を探る

-押井監督は,映画『エイリアン2』を見て,映像の中の映像,つまり二次映像に興味を持っている,ということですが?

押井 ありますね,それは。やっぱり映画そのものが二次映像なわけだけど,だからこそ映像の中で二次映像をどう扱えるのかということについて,以前から興味を持っていました。映画というのはなんとなく,現実ですって顔をしますよね。でも,もともとそんなものはどこにもなかったわけで,フィルムに写し撮られた段階でも,とっくの昔に現実ではなくて,作りものなんですよね。そうじゃなくて,映画はしょせん全部二次映像,作りものであることを全部ばらした上で,世界とか人間とか時代とかをどう描いていこうか,ということを考えているんです。

-二次映像を使うことで,それが可能になるわけですか?

押井 映画というのはありとあらゆるもの,写し撮られるものすべてを素材にしちゃう不思議な力があるんです。それは役者さんの顔であろうが,風景であろうが,雲一つ,水面一つ,全部がそうなんだけど,水面に写ってる影でも何でも,等価にしちゃうんですよ。等価にすることで,価値の序列みたいなものをいったん全部ばらして組み合わせることによってね,いろんな意味を付け加えることができる。二次映像を映画の中でいかに使うかという問題は,そういうことにダイレクトにつながってると僕は思うんですよ。それは,スクリーンでわざわざムービー・カメラのモニタ映したりとかね,何でそんなことやるんだ,って昔ならいわれたわけだけど,さっきいったようにCGがあたりまえの時代に住むのと一緒のようにね,写し撮られるべき一つの社会にすぎないんですよ。映画が描くべき世界は,人間とか現実とかといわれてたわけで,そうじゃなくしょせん役者が芝居してる世界と同じように,すでに存在している映像も映画にとっては人間の役者の顔と同じ,まったく等価,素材にすぎないんですよ。というふうにして考えられて作られた映画が見てみたい,と思っているんです。

-エイリアン2ではそれを意識していた?

押井 あるいは最初のエイリアンもそうだけど,二次映像がふんだんにでてきますよね。やっぱりあれを見て,かなり考えさせられたんです。最初の理由は,予算がなかったからビデオで撮って,それを役者がセンサーを見ているという主観のカットで映像として見せた。それが意外と,ものすごく本当らしく見えた。全部特撮や合成したりするカットよりもね。宇宙船の中のモニタ・スクリーンの中に,宇宙船に向かって歩いてる人間が荒れた画面で映っている。それを宇宙船の中のリプリーという女が見てるという。これが妙に,不思議なリアリティがあった。だからこそエイリアン2のときに,突入して行く海兵隊のアクション・シーンで,二次映像という形でビデオ映像があんなに入ってきた。あれは絶対意識してるんだと思うね。そういう意味では,今はそういうふうな一種,状況をよりリアルに見せるとか,迫真なものにするための道具,テクニックとして使われてるわけだけど,もっとそれ以上の意味がでてくるんじゃないかと思うんです。

これからの映像の見せかた

-それでは最後に,今後の抱負をお願いします。

押井 パトレイバーというのは,本来はあの作品のテーマの中に“モニタを見ている人間”という基本的な構図を持っているんです。普通は人と人が出会って,その対象は人間であるという描きかたですよね。人間と人間が向き合ってドラマが生まれるんじゃなくて,人間とモニタが向かい合っている構図の中に,何か語られる世界があるんじゃないかと思って,あの作品を作ったんです。だから二次映像っていうのは,扱うには一番うってつけの世界だった。今後も,いろんなパターンで二次映像というものに挑戦したいと思ってます。わりと手間としては大変なんですけどね。だけど,演出家としてはここを突き詰めていきたいと思っています。こういう映像は,若い人ほど抵抗感がない。むしろそれを,かっこいいと感じるんです。そういうふうな人間がどんどん増えていけば,あたりまえの世界になるんでしょうね。

-どうもありがとうございました。


  • AVComputer Magazine Vol.1
  • マイコン別冊オーディオ・ビジュアル・コンピュータ・マガジンVol.1
  • 1994年5月30日発行
  • マイコンBASICマガジン編集部/ジョルス編

※52ページ~55ページのインタビュー部分全文を再掲載(インタビュー&編集:住吉昭弘、撮影:高橋弘文、デザイン:貝沼俊之、記事起こし:布佐昭彦)。再掲載にあたり明らかな誤字のみ修正しました。

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